時間感覚と光の周期性


■リズムは拍ではない
私たち人間は空間を創造するとき必ず時間的感覚をそのデザインに取り入れている。たとえばシークエンス(場面から場面への移行の連続)を考えた瞬間、時間的要素を空間に取り込んでいるのである。場面から場面へという移行の前後関係を認識することが時間感覚であり、この連続した場面を構成できなければ空間を把握できないのである。人間以外の生物の一例としてカエルの空間認識をあげてみる。カエルはある決まった映像パターンだけを認知するという。これはある場面からある場面への移行の際、その映像の中で変化した部分だけをコード化し認知しているということらしい。これは、カエルがハエなどを捕えるために要する最低限の空間認識能力なのだ。人間の空間認識は非常に多い情報と場面の累積で成り立っている。その中で時間感覚が果たしている役割は大きい。私たちはこの「時間感覚」とどのように付き合っているのだろうか。
太陽は昇り、暮れ、沈む。夏の陽射し、冬の低い陽の光、雲の流れ、そうした自然の光の変化の「リズム」や「周期性」の中に私たちは身を置き、さまざまな「時間感覚」と向かい合っている。詩人のオクタビス・パスは「リズムは拍ではない-それは世界観である.暦,道徳,政治,化学技術,芸術,哲学,つまり私たちが文化と呼ぶすべてのものは,リズムに根ざしている.リズムは私たちのすべての創造の根源である.二次元的あるいは三次元的なリズム,また対立的あるいは周期的なリズムが制度,信仰,芸術,そして哲学を育て上げる.歴史はそれ自体がリズムである」(※)といっている.リズムとはパスがいうような一つの流れであり,「周期性」とはある決まった繰り返しである.日,月,季節,年は一つの時間的周期であり,過去,現在,未来と無限に続く連続なのである.このように概念的ではあるが「リズム」と「周期性」とは時間感覚において大きな違いがある.「周期性」とは繰り返しであるゆえに,ある場面(時や場所)にある時間を経て戻ることが保証されているものであるが,「リズム」にはこのようなことは保証されていない.「リズム」は予想がつく場合があるものの極めて連続した不安定な時間感覚とも言える.「リズム」と「周期性」という二つの時間感覚を考察することは、私たちが接する「人工」と「自然」というものとの付き合い方の提示をすることにもつながる.「日周期」という光の概念から学ぶ、時間感覚と空間認識に関してここで考えてみようと思う。

■生理時計
私たちはさまざまな周期的概念に取り巻かれている。その一つとしてバイオリズムがある。このバイオリズムは生物的な周期を導く計算式であり、フリースによって考案された。男性的な周期(力、忍耐、勇気など)は23日であり、女性的な周期(感受性、直感、愛など感情)は28日であるとされた。これらの周期は人の細胞深くに内在しており、精神的、肉体的な上昇、下降を示し、人の生死のタイミングまでも規定しているという。
またサーカディアンリズムと呼ばれる「日周期」がある。これは太陽が昇り、暮れ、夜が訪れ、そしてまた太陽が昇るという、24時間単位の周期である。さらに、人には大きく二つの周期がある。「睡眠―覚醒」(寝て起きるという繰り返し)と「深部体温周期」(自律神経機能)である。「睡眠―覚醒」の周期は外的刺激に同調しやすい。食事や他人との接触、テレビやラジオなどのマスメディアなど社会的な環境の周期、すなわち社会的同調因子がこの「睡眠―覚醒」の周期に及ぼす影響が大であるという。そしてこのような同調因子を除くと、その個体に固有のリズム的周期が持続する。人を社会から隔離した実験(地下室に均一な光、音、温熱環境を作る)から、人は約25時間の周期、すなわち日の周期でなく月の周期を示したという結果も得られている。このような自律的な周期を「深部体温周期」という。この周期の特徴は周りの刺激の影響をあまり受けないということらしい。すなわち、規則的な生活をしていても約25時間周期であるため、6日目には日周期と約6時間の差が生じることになり、よって人は週に一日はゆっくりと体を休め、深部体温周期の調整が必要であるという。そしてこれらの二つの周期がずれてくると、人は睡眠―覚醒の周期に障害が出てくる。時差症候群や交代勤務による睡眠障害などがその例とされ、高照度治療法、高照度室内照明対策などが実用化されているらしい。光と人の関係という意味において興味深い。

■都市と太陽の軌跡
コルビュジェは一枚のスケッチを描いた。それは太陽が昇り、そして夜が訪れ、そしてまた太陽が昇るという一日の周期を模式化したものであった。彼は太陽の軌跡がすべての都市設計者(建築設計、インテリア設計などを含む)にとって依存される重要なものであると言っている。夜、人は家で睡眠をとる。そして太陽が昇ると起き、労働の場に移動する。ごく当たり前のことではあるが、「都市の中での人の動きが太陽の軌跡に依存している」例である。しかしこの当たり前のことに着目してみると、太陽の動きが都市の形を決めているという例は身近にもあるのである。実はコルビュジェのスケッチした概念が夜の東京に浮き出ている。北側から見た東京と南側から見た東京は違う顔をしているのである。北側から見た夜景は「規則正しく配列された」白く輝く光が支配し、南側の夜景は白熱ランプの赤みがかった光と蛍光灯の白い光が混在する。これは集合住宅における、日本人が求める太陽の軌跡の関係により創り出された光景である。集合住宅では、北側に廊下を、南側にリビングルームを配するという典型的な構成が多く見られる。北側の夜景は、この外部廊下に設けられた通路用の蛍光灯の光が生み出したものだ。通路の照明としての白い蛍光灯が本当に人が求める光かどうか、またこのような典型的な形態の集合住宅のありようの是非は別として、今日彼が生きていれば、太陽の軌跡が生み出したこの東京の夜景はさぞかし魅力的であったに違いない。

太陽の運行(24時間)は人の活動を律動づける。
上円は現在の人の行動図。下円は都市計画の改善によって、調和のとれた生活が約束された際の行動図
(コルビュジェのスケッチを模写)


私たちは「都市生活と光の周期性(都市における光の構成図)」というテーマで繁華街と住宅地での時間帯による光の量と、その空間を移動する人(繁華街はサラリーマン、住宅地は主婦)の行動と、その人が受ける人工光の量を相対的に図にしてみた。繁華街と住宅地の共通点は24時間光が消えている時間がないことである。特に住宅地ではコンビニエンスストアの出現によって、全体の光の量の変化が繁華街とほぼ同じ移行となっている。そして昼と夜との光の状態が重なる夕方の時間帯にはともにはぼ100%の点灯率になっている。サラリーマンにとってはオフィスによる光が支配的であるが、主婦にとってはスーパー系の光が局部的な山を創っている。このように二人にとって明らかに接触する光の量と質、種類が違うのである。日常行動するエリアとその行動パターンによって、接触する光に「周期性」が生じる。日常の通勤経路の途中にコンビニエンスストアができ、帰宅途中に立ち寄ることが日課になってしまった、という経験をお持ちの方も多いのではないだろうか。「光の周期」という観点でこのことを見ると面白い。つまりそれまでの一日の光環境のサイクルには無かった光、それも日中のオフィス環境における時間当たりの光の量よりも高いレベル(明るさ)の光を、一日の終わりに、短時間とはいえ毎日浴びることになるということなのだ。睡眠―覚醒という生理的周期に関わるこの一連の光の「リズム」はこうして変化していくのである。そしてそれがまた「周期性」となって繰り返される。都市計画という分野があり、用地の用途を制限することによりひとつの生活環境整備が行われているように、光が人に与えるストレスとリラクゼーションをテーマとしてこのような都市計画や街路計画、建築計画、住宅設計が行われるとしたら、ひょっとしたら私たちの生活習慣も変わってしまうかもしれない。もしも今後、都市レベルでの光のコントロールを行うならば、この光の構成図のどの部分を消し、あるいは変え、またどの部分に新たに光を追加することが可能となるのだろうか。

都市において人が受ける光の構成図1
「あるサラリーマンが駅〜会社〜駅というシークエンスから」
日中のオフィス内の光は高いレベルで一定の値を示している。
しかし夜の街の徘徊は、さまざまな光の質、量の中の移動であるということが解る。



都市において人が受ける光の構成図2
「ある主婦が起きてから寝るまでのシークエンスから」
比較的低いレベルでの上下はあるが、スーパー系の光との出合いは特別に高い値を示している。


■自然光と人工光
自然光と人工光という対比をよく私たちはする。このとき自然光とは太陽光、天空光、月明かり、星明かりなどを示す。また単純に太陽光といっても、そのときの日時、天候にも大きく左右されるものである。ゆえに私たちが自然光と接するときには、そこに光のバリエーションが無限にあるのだということが前提となっている。風にそよぐ木漏れ日のある一定の光の変化にも、雲の流れによる光の変化にも、夕日のそのゆったりとした光の変化にも、しばらく身を置くことにいらだちを感じることはない。暮れゆく空と明かりが灯り出す街の光の対比をじっと待つことができる。
しかし人工光は別である。人工光によって作られたアミューズメント空間ではその限られた手法によっていくつもの場面をつくり、目に見える動きとしてのシーンを変化させる。しかし、訪れた人の滞在時間が長い施設ほど、その照明が見る人に新鮮な感動、面白味を与えられる寿命は短い。このような意味では所詮、人工光は自然光とは比較にならないぐらい光の表情として貧困なのである。だから、私たちは人工光の役割をはっきりと二分する必要がある。それは「舞台演出的な光」と「環境光としての光」である。現在の店舗やアミューズメント施設における照明手法は限りなく舞台演出に近い。舞台演出的な光は華やかではあるが一過性のものであるということを認識しなければならない。環境光としての自然光と同じように人工光が役立つことはもちろん可能である。しかし、それは自然光を再現するという意味ではない。人工光の持つ光の色味や光の量を配置することにより、太陽の周期、人の生理的周期にいかに同調させるか、焦点を二つに分けることで、現在人工光に求められている役割が解るはずである。
人工光による自然光の再現、演出は、技術的には常に研究と試みの対象となっている。しかし、果たして人工光で自然光を再現する、などということが空間のメインテーマである必要があるのか。光の演出が主体となった空間がいかに貧困であるか、なぜリアリティーがないかをここでもう一度、しっかりと再検討する必要があるのではないだろうか。自然に対するときの受動的な時間感覚(人がコントロール不可能なもの)、人工に対するときの能動的な時間感覚(人がコントロール可能なもの)、これらの光と向き合うときの精神的立場は明らかに違いがあるのである。このことは、私たちがどのように光と接していくのかということが永遠のテーマになることを示唆する。なぜならば、光的時間感覚は周期ではなく、前述のオクタビス・パスの言葉通り一つの流れであり、永遠に続く「リズム」であるからだ。

*「共振する世界」(青土社 中村雄二郎著)より引用

| 要約版へ |